交通事故の鑑定事例⑧

シリーズ今だから言える 町田交通トラブル致死無罪事件

【もし交通トラブルに遭遇したら】
 石橋和歩タイプの人間は少なからず存在する。
 こういった人間と関わってしまったら、どうすればよいだろうか。
 ちなみに、私が同じ目に遭ったら、最悪、相手を轢いてでも逃げる選択肢も考える。
 鑑定人が人を轢くことを考えるとは、と思われるだろう。
 しかし、これには理由がある。
 以前、本件と同様の事案で、交通トラブルとなった相手を轢き殺した事例があった。
 被害者となった男性は、因縁をつけ一般人にも襲いかかった御仁であった。
 この事件では、轢き殺した側が傷害致死罪で起訴されたが、正当防衛が認められた。
 
 つまり、起訴はされたものの無罪となった前例があるからである。
 見も知らぬ人間との交通トラブルは避けて通れない問題である。
 今回は、東名事例と近い、町田交通トラブル致死無罪事件について述する。
 
 車発進させ死亡 正当防衛を認め無罪 東京地裁立川支部
 東京都町田市の路上で2014年11月、交通トラブルの相手の男性が自分の車のドアにしがみついているのに車を発進させ、死亡させたとして、傷害致死罪に問われた同市の元会社員、****被告(46)の裁判員裁判で、東京地裁立川支部は16日、正当防衛の成立を認め、無罪(求刑・懲役3年)を言い渡した。菊池則明裁判長は「相手の男性が被告を運転席から引きずり出し、暴行を加えるなどの危険性があった」と認定した。
 判決によると、トラブルが起きた際、相手の男性(当時23歳)は被告の運転席付近で怒鳴り、拳を突き出して顔面を車の中に入れた。被告はそのまま車を発進して加速し約25メートル走行、男性は転倒し、頭などをひかれて死亡した。
 検察側は「窓を閉めたり、速度を落としたりするなど他の手段もあった」と主張したが、判決は「逆上した相手に何をされるか分からないという状況にあった」と指摘。「被告に加害の意思はなく、他に回避手段をとることも困難だった」として正当防衛の成立を認めた。
 

【毎日新聞2016年9月17日 02時37分】


【鑑定合戦】
 実は、私は前掲の事件で被告人側弁護士の依頼を受け、鑑定を行った。
 鑑定内容は、検察側の鑑定を弾劾することである。
 検察側は、車両を蛇行させ、センターピーラーにしがみついた被害者を振り落としたとの鑑定を行った。
 鑑定を行ったのは、警視庁指定広域技能指導官のM警部である。
 対する弁護側は、被告人がただ単に自車を直進させただけとの主張である。
 私は、三次元CADで事故状況を再現し、検察側の鑑定に矛盾がある点を指摘した。
 
 実は、私はM警部とは別件で事故態様にまつわる鑑定で戦ったことがある。
 その別件では、一部無罪となり、ある意味M警部と痛み分けに終わっていた。
 ある意味、町田の件は因縁の対決ともいえる。
 
 町田事件の裁判は、官民の鑑定合戦の様相を呈し始めていた。

町田交通トラブル致死無罪

【正当防衛】
 この事件では、トラブル相手の轢過が正当防衛に当たるか否かが争点だ。
 事件に至る経緯としては、東名で夫婦が死亡した事例と酷似する。
 
 端緒は些細なトラブルであり、路上で車から降りてまでのことではない。
 相違点としては、事故が起きたのが高速道路ではなく一般道であったことだ。
 町田事件でも些細なことで因縁をつけ、車から降りて依頼者に襲いかかったのである。
 40代の依頼者はまだ幼い娘を同乗させていた。
 恐怖に駆られ、車を発進させたが、相手はそれでもセンターピーラーにしがみついた。
 依頼者は、そのまま車を走らせ、相手は車の速度について行けず転倒。
 そして、依頼者の運転する車は、右後輪で転倒した相手の頭を轢下した。
 検察は、依頼者が逃げる際に相手を振り払おうと左右に蛇行させたとしている。
 対する私は、左右に蛇行させると本件事故態様には矛盾がある旨を鑑定した。

【水面下の攻防】
 ちなみに刑事事件で、鑑定書がイキナリ法廷に提出されることはない。
 公判前争点整理手続きに付され、予備的な審理が行われる。
 双方が公判前に証拠を開示し争点を明示し、これらを絞り込む手続きだ。
 規定はないが、非公開が慣例で、いわば検察と弁護側、水面下の攻防である。
 刑事事件における実質的な鑑定合戦は、この手続きが主戦場だ。
 相互に鑑定の矛盾を指摘し合ったり、補充書が交わされる。
 ところが、検察の対応は意外なものだった。
 この争点整理手続きにおいて、検察側は条件付でM警部の鑑定を取り下げたのである。
 検察側の鑑定を取り下げる条件とは、弁護側の鑑定、つまり私の鑑定も取り下げること。
 しかしながら、この意味は 「弁護側主張の事故態様を争わない」 という意思表示だ。
 実質的に私の鑑定が採用されたに等しく、これは極めて異例のことである。

【喜べない勝利】
 この事件は裁判員裁判であったが、依頼者の正当防衛が認められ無罪である。
 検察も、この件について上告せず、無罪は確定した。
 後になって思えば、M警部の鑑定はどこか精彩を欠いていたように感じる。
 M警部は警視庁指定広域技能指導官であるが、所属は神奈川県警。
 広域技能指導官とは、都道府県境を越える職なのであろう。
 警視庁で誰もやりたがらないので外様のM警部にお鉢が廻ったとの見方もあるかもしれない。
 ちなみに、いつものM警部の鑑定は精緻で、切れ味というか凄みがある。

【やりきれなさ】
 しかし、町田事件に於いては、いつもとは違った印象を受けた。
 これは、警察が作成した実況見分調書についても同じである。
 勿論、手抜きではなく、必要事項についてもれなく記載されている。
 何処が精彩を欠いていたのか・・・・これを説明しても伝わらないだろう。
 敢えていえば、捜査員等の 「やりきれなさ」 が行間からにじみ出ている様に感じた。
 この感覚は、交通事件に携わった者にしかわからない。
 この件は依頼者の正当防衛が認められたので、鑑定としては私の勝ちである。
 しかし、素直に喜べず、何ともやりきれない暗鬱とした想いが残った。

町田交通トラブル致死無罪

【轢き殺すという選択肢】
 ここで、東名の交通トラブルで死亡した夫婦について考えてみる。
 この事故では、石橋和歩等を轢いてでも逃げるという選択肢があった。
 時系列的に見ると、停止してから衝突まで約3分あり、机上の計算では可能である。
 しかし、死亡した被害者等の車はキャブオーバー型のワンボックス車。
 衝撃を吸収するボンネットがない分、歩行者の死傷率は高い。
 死亡に至らなくとも、衝突で歩行できなくなる受傷を得る可能性も低くない。
 その場合、後続車に轢過されることは必至であろう。
 しかし、東名事故で、死亡した夫婦が生還するには石橋和歩を轢くしかなかった。
 勿論、轢かれた石橋和歩が死亡する蓋然性は高い。
 しかしながら、死亡した夫婦が生還するためには、最も合理的な選択肢であった。

【無罪の代償】
 仮に、死亡した夫婦が石橋和歩を轢いて、最悪、死亡させてしまったとしよう。
 おそらく判決は、町田事件と同様に無罪の可能性が高い。
 町田事件の他にも、交通トラブルで死亡した事例でも無罪判決が出ている。
 しかし、無罪に至るまで年単位での取り調べや刑事裁判は避けられないだろう。
 現に町田事件の依頼者は、事件発生から無罪が出るまで約2年を要した。
 ちなみに、町田事件の依頼者は事故と同時に職を失っている。
 働き盛りの被告人は、家族を抱えており、アルバイトで糊口を凌いだそうだ。
 無罪までの2年間の窮乏は如何ばかりかと、察するにあまりある。
 最高裁判所で無罪を勝ち取った煙石博氏も、逮捕から無罪判決まで4年。
 無罪の代償は、あまりにも大きい。
 もし私が、東名で死亡した夫婦と同じ立場になったら・・・・
 私は、商売柄、石橋和歩を轢くことが、最も合理的な選択肢と瞬時に理解するであろう。
 しかしながら、そうと知りつつも目の前に人がいるのにアクセルを踏み込む自信はない。

【最後に】
 町田事件の被害者の行動は、石橋和歩容疑者に酷似している。
 ネットにも、生前の悪行が書き連ねられていた。
 死人に口なしで、今となっては書き込みの真偽はわからない。
 しかし、私はその事件で死亡した被害者に激しい憤りを今でも感じている。
 彼の父親の遺族調書には、息子に対する想いが切々と書かれていた。
 周囲から、蔑まれようとも息子を庇う内容で、悲哀に満ちた内容だった。
 私が憤りを感じること自体、死者に対して鞭打つことに他ならない。
 それでも憤りを禁じ得ないのは、被害者が父親よりも先に逝ってしまったことである。

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